オスロー合意

第3話:オスロ合意は、イスラエルとパレスチナの和平への道標 

1. はじめに:中東戦争の始まり

2.パレスチナとは、何を意味する言葉なのか

3.オスロ合意で調印された内容

4.ノーベル平和賞受賞後、イスラエルに何が起こったのか?

5. 第3話の補足:そもそも、ユダヤ人とアラブ人の対立はなぜ起きたのか

1.はじめに:中東戦争の始まり

1948年、イスラエルが建国を宣言した翌日、独立を認めないアラブ諸国側がイスラエルを一斉に攻撃しました。これが第一次中東戦争の始まりです。それから、現在に至るまで、この地に悲しみの声が絶えることがありません。

2023年からは、パレスチナのガザ地区を支配するハマスとイスラエルとの間で新たな戦いが続いています。

中東の地に悲しみの声が絶えることはありません

「イスラエルとパレスチナの紛争? 北欧と関係ないでしょ?」という声が聞こえてきそうですね。そんなことはありません。かつて、2国間の和平に向けて歴史的に大きな合意が行われた事がありました。その時、水面下ですべてを取り仕切り、世界中を驚かせたのがノルウエーなのです。

2.パレスチナとは、何を意味する言葉なのか

「パレスチナ」とは、もともとは土地の名前(無料 画像 イスラエル 地図 – 検索 画像 (bing.com)

パレスチナとは、地中海の東に位置する沿岸地域であり、レバノン・シリア・ヨルダン・エジプトに囲まれた場所を意味します。つまり、もともとは土地の名前なのです。現在、この土地の中で、「東エルサレム・ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」にパレスチナの人々が住んでいます。

3.オスロ合意で調印された内容

1993年9月13日:ホワイトハウスでの歴史的な握手(オスロ合意 画像 無料 – 検索 画像 (bing.com)

握手を交わすイスラエルのラビン首相(左)、とパレスチナ解放機構のアラファト議長(右)。中央には、就任直後のクリントン大統領(アメリカ)。この日、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)が初めて和平交渉に合意し、歴史的な調印が行われました。これを「オスロ合意」といいます。オスロとは、言うまでもなくノルウエーの首都です。オスロにおいて、2国間の対話から合意に至るまでの間、水面下でノルウエー政府が尽力して実現した調印でした。アメリカのクリントン大統領は、いわば最後の「立会人」の形でした。

主に以下の2点がオスロ合意の内容とされています。

1.イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。

2.イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。

「世界で最も解決が難しい紛争」とも呼ばれてきたにもかかわらず、この2点で両国が合意したのは、まさに歴史的な出来事でした。また、2国間の仲介役を行ったのが北端の小国であるノルウエーであったことも世界を驚かせたのです。

そして、1994年のノーベル平和賞は、以下の3人が共同受賞しました

ヤーセル・アラファト(パレスチナ:PLO議長)

イツハク・ラビン(イスラエル:首相)

シモン・ペレス(イスラエル:外務大臣)

*参考:オスロ合意の中心的役割を果たしたのは、ノルウエーのホルスト外務大臣(当時)です。彼はオスロ合意の調印が済んだ後に、脳卒中で倒れたまま、帰らぬ人となってしまいました。

4.ノーベル平和賞受賞後、イスラエルに何が起こったのか?

翌1995年 9月に自治区を拡大するパレスチナ自治拡大協定(オスロ第二合意)が結ばれました。これは、中東が平和の道を確かに歩み始めた証でありました。

しかし、11月に大きな事件が起きました。イスラエルのラビン首相が、ユダヤ人の青年(右翼過激派)に暗殺されてしまったのです。これは、イスラエル国内にオスロ合意に対する強い不満があることを表面化する結果となり、和平交渉は暗礁に乗り上げ始めました。

95年:イスラエルのラビン首相が、ユダヤ人の青年に暗殺されてしまう

96年のイスラエル首相選挙で右派政党のネタニヤフ氏が選出されると、和平の進展は滞りました。さらに2001年にシャロン氏が首相になると、イスラエルはヨルダン川西岸地区を再占領したのです。

一方、パレスチナ側では2006年の評議会選挙でイスラム原理主義組織のハマスが勝利します。ハマスは、ガザ地区を占拠してイスラエルへの攻撃を続け、イスラエルは空爆で対抗する等、暴力の連鎖が止まらなくなりました。

 2024年、将来の見通しがつかないガザ紛争。和平に向けてイスラエルとパレスチナとの交渉が始まることになれば、仲介役としてノルウエーの名前が再び挙がるかもしれません。

しかし、そもそも人口433万人程度(当時)にすぎない北端の小国であるノルウエーに、オスロ合意ほど大きな外交が何故できたのでしょうか?

第4話は、ノルウエー外交力の秘密です

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5. 第3話の補足:そもそも、ユダヤ人とアラブ人の対立はなぜ起きたのか

2000年以上前から続く難しい問題であり、とても簡単に説明することはできません。しかし、あえて要約するならば、以下のようになります(詳しくは、専門書を読まれることをお勧めします)。

1.2000年以上前:

パレスチナの土地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人が住んでいました。しかし、ローマ帝国によって滅ぼされ、パレスチナを追い出されることになり、世界各地に散っていきました。

2.19世紀:

ユダヤ人は、ヨーロッパで迫害を受けることになりました。その理由は、キリスト教との宗教の違い、さらに金融業で彼らが富を得たことが大きいと言われています。差別や迫害を受けたユダヤ人の中で、かつて自分たちの国があったパレスチナに戻ろうという運動が起きました(シオニズム運動)。しかし、この地には、すでにパレスチナ人(アラブ人)が住んでいたため、両者間に衝突が起こったのです。第一次世界大戦時、パレスチナを含むオスマン帝国を切り崩し、自らのものにしようというイギリスの策略に、ユダヤ人とアラブ人はともに振り回されることになります。

3.第二次世界大戦時:ナチス・ドイツによるユダヤ人の大虐殺(ホロコースト)

600万人にもおよぶユダヤ人が殺害されたことで、自分たちの国を建国しようという願いが、生き延びたユダヤ人の中で強まったのです。1947年、ナチスの犠牲になったユダヤ人への同情も高まり、パレスチナの地にユダヤ人の国を作らせようという国連決議が採択されたのでした。そして、翌年にユダヤ人がイスラエル建国を宣言しました。しかし、パレスチナ側からは、「勝手に国を作られ、広大な土地を取られた」という反発が起こったのです。イスラエルが建国を宣言した翌日、アラブ諸国がイスラエルに攻め込み、第一次中東戦争が始まりました。

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